M&A労務

労務DDの内容自体は、IPOもM&Aも同じ（労働法令は共通）ですが、目的が異なるので、注力するポイントが異なります。

IPOにおいては、自社の労務コンプライアンスを段階的に整備する前提で労務DDを実施しますが、M&Aにおいては、他社を自社（自グループ）に取り込むための障害を整理する目的で労務DDを実施します。

M&Aのディールにおいて、労務的な注意が必要な局面は次の3つです。

主に次のようなものが考えられます。

労務DD実施時には簿外債務の金額を算出しますが、精緻な金額を算出するとなると、膨大な作業量となること、また突然の訴訟リスクなどは算出が極めて困難なため、一般的には概算金額を算出することが多いです。

例えば賃金未払についての簿外債務は、数ヶ月（３～６か月）の賃金未払状況を元に、そこから３年分を推定し計算する方法が採られることが多いです。

ただ、概算金額であるとはいえ、買収予定企業の簿外債務の大きさがある程度わかるため、その算出された金額を基にディール時の金額や条件の検討、PMI実施時の改善のポイントとして利用頂くことになります。

重大な法令違反とは、M&A後の統合プロセスに大きな障害になるような法令違反であり、労働基準監督署による是正勧告や書類送検、従業員からの訴訟になるような事案です。一例として次のようなものが考えられます。

労務DDにおいては、簿外債務・法令遵守の状況を中心に実施しますが、今後の人事戦略を含めできれば確認をしたいポイントがいくつかあります。

①　退職金制度 特に自社との退職金制度が異なる場合は、PMI時点で退職金制度の変更や、退職金の支払などが発生することがあります。特に自社で構築している退職金制度の場合、その支払が実際に可能かどうかを確認するために、直近の決算の貸借対照表より、退職給付引当金や資産・資本の状況も確認することが必要です。

②　年齢構成 従業員の年齢構成は、買収した企業のその後の人事戦略を考えるうえで重要となります。ある一定の年齢層に固まっていないか。高齢者の雇用状況や若年者の雇用状況はどうか。などを確認することが買収後の採用や配置などの人事戦略を検討するために必要となります。

③　人事制度 人事制度は企業が従業員を評価するツールのため、その評価項目やウエイトを確認することで、買収予定企業の評価方法や社風などをある程度理解できるようになります。PMI実施には、異なる人事制度を一つに統合する作業が必要となる場合もあることから、その際に今までの人事制度との違いを知ることは重要です。

④　組織・キーマン 特に重要視されていた組織およびキーマンについては確認をしたいポイントの一つです。PMIが成功するかどうかはそのキーマンや組織の協力が必要不可欠のため、重要な要素となります。

スキームが会社分割である場合は、労働契約承継法の対象となり、次のような手続が必要になります。（対象労働者の個別同意を得た場合でも省略できません。）

M&Aの効果を最大限に発揮するためには、労務管理面の統合が必要になります。一般に、買収する側とされる側では、就業規則、管理システム、賃金制度、福利厚生など全てが異なります。これを調整しながら統合を進め、一体的な人材活用ができるような体制を構築していくことが必要になります。その際に、壁になるのは「不利益変更の問題」です。

不利益変更については、法律が分かりにくいため、要素分解をしながら丁寧に論点をクリアしていく必要があります。

原則　「労使の合意により変更することができる」「使用者は、労働者と合意することなく、就業規則を変更することにより、労働者の不利益に労働契約の内容である労働条件を変更することはできない。」（労働契約法第8条、第9条）

例外　「使用者が就業規則の変更により労働条件を変更する場合において、変更後の就業規則を労働者に周知させ、かつ、就業規則の変更が、労働者の受ける不利益の程度、労働条件の変更の必要性、変更後の就業規則の内容の相当性、労働組合等との交渉の状況その他の就業規則の変更に係る事情に照らして合理的なものであるときは、労働契約の内容である労働条件は、当該変更後の就業規則に定めるところによるものとする。」（労働契約法第10条）

いわゆる4要件を整えながら、丁寧に説明会等を実施して理解を求める作業が必要になります。

ケースバイケースです。原則論としては、転籍元で資格喪失をして、転籍先で資格取得をすることになりますが、スキームによっては、現状の資格をそのまま転籍先に引き継ぎが可能なケースもあります。その際には、行政機関（ハローワーク、年金事務所、健康保険組合等）との事前協議が必要な場合もありますので、社会保険及び労働保険の専門家としての社会保険労務士の助言を得ることが有用と思われます。

企業価値の向上という観点から大いに意味があると考えています。確かに、M&Aデューデリジェンスは、買い手側がリスクヘッジとして行うことが一般的で、売り手側にとっては面倒な手続に見えてしまうかもしれません。ただ、発想を転換して、売り手が取引に臨む前に、自主的に労務DDを実施するケースをご想像いただければそのメリットが見えてくるのではないかと思います。M&A案件として持ち込む前に、自主的に調査、改善を施すことで、「取引対象としての自社の価値」を大きく変えることができます。M&Aのディールに入った際に、プレーヤーからの評価は大きく変わるでしょうし、そうなれば条件（売買価格）を引き上げるということは十分に可能と思われます。

労働法令には、消滅時効という概念がありますから、簿外債務については、事前に手を打つことができれば、解消できるものが相当数ありますし、法令違反についても、最低限の対応をしておくだけで、法的リスクを大幅に引き下げることができる部分もあります。100 or 0思考ではなく、コストパフォーマンスの観点から、企業価値を向上させるために労務管理に一定のコストを投じておくという選択は、売り手側としても十分合理的な判断であると考えます。

簿外債務の大きさによってはディール時の金額が大幅減少することははもちろん、最悪はディールが不成立になる可能性もあることから、労務DDやディールが開始されるまでになるべく簿外債務を減らす取り組みを行う事が重要となります。

具体的には以下のような対策を講じることが効果的です。

①　勤怠システムなどの客観的な勤怠記録の導入
②　時間外労働の削減
③　適正な賃金計算（特に割増賃金については、時間数、金額ともに適正な処理を行う）
④　適正な社会保険・労働保険の実務の運用（適正な届出や保険料の適正申告　等）
⑤　就業規則、36協定、その他労務関連規程および労使協定の作成および届出
⑥　管理監督者制度の適正化
⑦　ハラスメント対策

上記の対策全てを講じることが困難な場合は、特に賃金に関する事項、時間外労働の削減、社会保険・労働保険の適正運用など簿外債務に直結する事項をまずは取り組むことが重要です。なるべく早く対策を講じることによって、自社の企業価値を高めることができ、M&Aのディールを優位に進めることが可能になり得ます。